那覇地方裁判所 平成元年(ワ)76号 判決
原告
硫黄鳥島入会組合
右代表者組合長
東江芳隆
右訴訟代理人弁護士
根本孔衛
同
新里恵二
被告
国
右代表者法務大臣
三ケ月章
被告
具志川村
右代表者村長
野村時雄
被告両名指定代理人
須田啓之
同
松江長次
同
木下博起
同
久場兼政
同
石原淳子
同
友利勝彦
被告国指定代理人
三島美智男
同
浦崎敏明
同
吐合政吾
同
三城法博
同
田端善次
被告具志川村訴訟代理人弁護士
宜保安浩
同
大城浩
主文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 原告が、別紙物件目録三記載の土地(以下「本件係争地」という。)について、共有の性質を有する入会権を有することを確認する。
2 訴訟費用は被告らの負担とする。
二 請求の趣旨に対する答弁
1 本案前の答弁
(一) 本件訴えを却下する。
(二) 訴訟費用は原告の負担とする。
2 本案の答弁
主文同旨
第二 当事者の主張
一 請求原因
1 当事者
(一) 原告は、昭和六二年一〇月一八日に結成された組合であり、那覇市楚辺二七六番地に住所を有し、その組合規約(以下「組合規約」という。)三条には、組合員の資格について、次のとおりの定めがある。
第三条(組合員の資格)
この組合の組合員たる資格は、次の者(世帯主)に限られる。
(1) 昭和三四年七月に硫黄鳥島から島外へ避難した世帯の世帯主もしくはその子孫より一人宛(原始組合員三一名)
(2) 次に掲げる者は、組合総会の議決によって組合員たる資格を取得することができる。
〈1〉 明治三七年以後硫黄鳥島に在住し、昭和三四年七月以前に島外に転出した元鳥島区民
〈2〉 明治三七年二月一一日までに硫黄鳥島より具志川間切鳥島村(現在の具志川村字鳥島。以下、具志川間切鳥島村を単に「鳥島村」と、具志川村字鳥島を単に「字鳥島」と呼称する。また、これらの呼称は、地名であると同時に、そこに住む住民団体を指すこともある。)へ移住した者の子孫(相続人から一人)
〈3〉 右〈1〉、〈2〉以外の者であって、本組合総会によって、特に必要ありとして加入を認められた者
(3) 前項に基づく組合総会の承認が得られず、加入が否決されたときにも、その不承認の議決に対しては、何人も異議を申し立てることができない。
(二) また、結成総会特別決議において、組合規約三条二項に基づき組合員たる資格を取得する者については、次の三つの要件を充足しなければならないこととされた。
(1) 毎年行われた硫黄鳥島への墓参に、過去において二回以上参加した経験のあること。
(2) 組合総会において定められた一定額の金員を負担すること。
(3) 当組合の有する入会権の行使・確認につき、過去において妨害行為がなかったこと。
(三) 原告の構成員のうち原始組合員は三一名、組合規約三条二項により組合員資格を認められた者は九五名である。
2 硫黄鳥島の位置
硫黄鳥島は、鹿児島県奄美郡徳之島の西方六五キロメートル、北緯二七度五二分、東経一二八度一四分、沖縄県の最北に位置し、面積二・五五平方キロメートルの小島である。
行政上は、沖縄県島尻郡具志川村に属するが、沖縄県唯一の活火山島で、昭和三四年八月以降は常住者のいない島となっている。
3 入会権の成立
(一) 明治三七年の移住前の硫黄鳥島の土地の権利関係
硫黄鳥島は、琉球王朝時代は首里王府の領有地であり、そこで主として硫黄の採掘に当たっていた島民は、鳥島なる実在的総合人団体(以下「旧鳥島部落」という。)を形成し、その土地を共同あるいは単独で所持進退していた。明治一二年の琉球処分により、その領有者は首里王府から日本政府に変わった。
その態様は、次のとおりである。
(1) 硫黄山、拝所、墓地と山野の一部は村落の共同進退
(2) 役場、学校敷地は村落の共同進退
(3) 畑地と山野の一部は耕作者の各戸進退
(4) 宅地は居住者の各戸進退
また、明治三二年から明治三六年にかけて行われた沖縄の土地整理事業(封建的領有即ち所持進退関係から近代法の権利への変換、編成作業)により、それぞれの所持・進退の態様に応じて、その主体が右記の態様にしたがって、単独所有権者あるいは共有(総有)権者となった。
(二) 明治三六年の火山爆発と翌三七年の久米島移住
明治三六年四月、硫黄鳥島北端の通称硫黄山が大噴火し、噴煙降灰のため畑の耕作物は被害を受け、硫黄採掘も危険となり、明治政府も久米島移住を勧奨したので、同年一二月と明治三七年二月の二回に分けて一〇一世帯、六七六人の島民が久米島に移住し(以下「第一次移住」という。)、久米島具志川間切内に鳥島村(後の具志川村字鳥島)を立村した。
(三) 久米島移住に際しての島会決議と土地所有権の帰属
(1) 前記移住に際し、明治三六年九月四日、鳥島島会が開かれ、次のとおり決議された(以下「島会決議」という。)。
〈1〉 鳥島ノ住民ハ、目下久米島ヘ移住スルノ許可ヲ得タルヲ以テ、移住後ハ、所属間切ノ一部落ヲ組織シ鳥島村ト称ス。
〈2〉 移住地ハ、一戸平均凡ソ千八百坪内外ノ配当ヲ受クルモノトシ、鳥島ニ現在スル土地ハ、悉ク久米島ナル鳥島村ノ所有トス。
〈3〉 家屋ハ、一戸平均凡ソ五拾円ヲ最高ノ支給標準額トス、其ノ各戸ニ対スル実際ノ補助額ハ、家族ノ多少家屋ノ大小等ノ状況ニ依リ之ヲ定メ、移住地ニ移住セシム。其ノ腐朽シテ移管シ能ハサル家屋ハ、久米島ナル鳥島村ノ所有トシテ存セシメ、移住費ノ評定額ヲ以テ新ニ家屋ヲ建築シテ之ヲ交付ス。若シ移管費ニ不足ヲ生スルカ又ハ建築設計ニ特別ノ希望ヲ有スル為メ該費額ヲ超過スル場合ニ於テハ、其ノ超過額ハ自弁トス。
〈4〉 第二項、第三項ニ依リ鳥島村ノ所有ニ属シタル土地ハ、硫黄採掘ノ為メ出稼スルモノニ貸与スルノ外、他ニ対シ売買譲与又ハ貸与ヲ許サズ。
〈5〉 鳥島ノ基本財産及其ノ権利義務ハ、久米島ナル鳥島村ヘ移管セシムルモノトス。
〈6〉 移住ニ関スル事項ニ付、島長ノ諮問ニ応ジ及其ノ執行ヲ補助スル為メニ島民総代トシテ委員六名以内ヲ選挙ス。
〈7〉 硫黄鉱業特許ニ関スル権利ハ、久米島ナル鳥島村ノ名義ニ更改スルモノトス。
右ハ、今般本島住民ノ全部、久米島具志川間切ヘ移管ニ付、島会ニ於テ満場一致ヲ以テ決議ス。
(2) 右島会決議を受けて、当時の沖縄県知事は、明治三六年一〇月一九日、沖縄県訓令乙第五九号を発令し、その七項において、「鳥島ニ残存スル耕宅地及家屋ハ新立村タル団体ノ所有トナサシムベシ」と規定した。
(3) 右島会決議とこれについての各員の承認によって、前記3(一)(1)ないし(4)の各戸地は、すべて実在的総合人としての鳥島村の所有(総有)となった。
〈省略〉
(四) 明治四一年の島嶼町村制の施行
明治四一年四月一日、沖縄において島嶼町村制が施行され、封建法上の実在的総合人であった鳥島村に包含統一されていた行政単位としての側面は、島嶼町村制上の行政単位である被告具志川村に吸収合併され、鳥島村が行政目的のため所有していた財産も、これにしたがって被告具志川村有となった。
他方、鳥島村の生活共同体としての側面は、右のとおり行政単位としての側面が分離吸収されたことにより、純化された住民の結合体たる部落である字鳥島となり、私法上の団体として存在することになった。また鳥島村所有の財産のうち生活共同体の側面において保有されてきた本件係争地は、字鳥島の総有の対象として引き継がれたものである。
4 入会権の承継
(一) 久米島移住後の硫黄出稼ぎ
硫黄鳥島で硫黄採掘に当たっていた島民及び復帰者たちは、島内の宅地・耕地・山林・海浜を自由に利用・耕作・伐採・採取して生活の拠点とし、子供たちは字鳥島の学校へ就学した。
この状態は硫黄採掘が業者の経営になり、住民がその従業員として働くようになっても同様であった。
(二) 昭和一一年の字鳥島による硫黄採掘権処分
昭和一一年、字鳥島は、硫黄鳥島の硫黄採掘権を京都所在の東洋硫黄鉱業株式会社に金三万円で売り渡した。売買代金は、一部は字鳥島の経営にかかる鳥島信用組合の赤字補填に充てられ、大部分は明治三七年の鳥島村移住前に硫黄鳥島で生まれ、鳥島村に移住した者(約六〇〇名)に分配された。
(三) 昭和一八年の硫黄鳥島区の成立――字鳥島と硫黄鳥島区の分裂
昭和初年ころから、硫黄鳥島に住む住民集団と字鳥島の字民集団との間は、次第に分裂して二つの共同体・部落が形成されていった。昭和一〇年には、硫黄鳥島の住民たちは硫黄鳥島区の名称を使用し、区長をおいて、島内の自治に当たり、また、硫黄鳥島区民は、字鳥島の字有地内の字有地の処分についての相談も、利益の配分にもあずからなかった。
そして、前記の硫黄採掘権の売却と、昭和一八年に硫黄鳥島に小学校が発足したことにより、両者は完全に分裂し、硫黄鳥島区という新たな部落・生活共同体・入会集団が成立した。
その結果、本件係争地は、全て硫黄鳥島区民の総有物となった。反面、硫黄鳥島区民が字鳥島の部落民とともに有していた字鳥島地内の共有財産に対する権利は失われた。
即ち、硫黄鳥島区は、字鳥島が所有していた土地のうち、硫黄鳥島に所在する土地については、単独で排他的な共有の性質を有する入会権を、総有者の分裂による各当事者の総有物の分割の合意又はその承継により字鳥島から承継して取得したものである。
(四) 昭和三四年の火山の再爆発と島民の那覇移住
昭和三四年六月、硫黄山が再爆発し、同年七月三〇日までに硫黄鳥島の住民三一世帯一三八名全員が、沖縄本島(大半は那覇市)へ移住した。以来、硫黄鳥島は常住者のない島となって現在に到っている。
5 入会慣行の内容及びその変遷
(一) 明治三六年以前について
硫黄鳥島は、絶海の孤島であり、島民は自給自足の生活を営むことを余儀なくされていた。そこで、島民は、琉球王朝時代以来何世代にわたり、家を建てる材木、屋根の茅、畑の草肥、家畜の飼料、燃料の薪等の生活資料を、全て硫黄鳥島の山野から採集し、また貢租である硫黄の採掘に当たってきた。この硫黄採掘についての鉱業権は、島民三名の名義であったが、その実質的所有者は旧鳥島部落であった。
(二) 明治三六年の火山爆発・第一次移住以降昭和三四年の火山爆発まで
昭和三四年まで、硫黄鳥島区民が慣習上行使していた共同収益の内容は、硫黄鳥島全島における地物の一切の利用である。主要なものは、宅地の家屋敷地としての利用、畑の耕作地として利用(分割利用形態)、山林原野の放牧・採草・採薪地・採石地としての利用、広場等の利用、道路の通行、温泉入浴など(個別共同利用形態)である。
字鳥島の住民の中から、硫黄採掘のため硫黄鳥島に渡った者は、字鳥島の所有(総有)であり、入会権の対象である採掘権を、その支分権者として行使した。
その後、字鳥島はこの採掘権を業者に貸与し、対価を得ていたが、これは、入会権を契約利用形態として行使していたものである。
(三) 昭和三四年六月の硫黄山再爆発・移住以降
昭和三四年七月の移住(以下「第二次移住」という。)以後は、毎年一回の訪島の際、樹木・海産物・三羊の採取、キャンプ地としての使用等を行っている(直轄利用形態)。また、硫黄鳥島には原告組合員らの祖先の墓地があって、墓参が行われ、御獄など聖地の清掃、参拝が行われ、山羊の放牧が行われるなど、現在も入会権が継続行使されている。
6 本件訴え提起に至った経緯
昭和四七年、鹿児島県天城町から、硫黄鳥島について、その行政区域に編入する案が出され、また、昭和五四年及び昭和五八年には、米軍施設建設案が出され、原告組合員らはこれに反対した。その際、行政管轄者たる被告具志川村当局と交渉したが、被告具志川村は、硫黄鳥島は村有であると主張したため、原告組合員らと争いとなり、本訴を提起するに至った。また、被告国との間においても、本件係争地の範囲について争いがある。
二 被告らの本案前の主張
1 当事者能力
原告は、単なる民法上の組合にすぎず、当事者能力を有しない。
2 当事者適格について
(一) 原告は、原告が入会地盤を離れて約二七年も経過してから、入会権の確認を求めてきたもので、そこには、入会権の基礎となる事実状態としての土地の共同利用形態は存在せず、部落共同体たる事実も存しない。したがって、入会団体としての実体は全く存在しない。
(二) 仮に、原告の主張する入会権が存在するとしても、原告は、昭和六二年一〇月一八日の硫黄鳥島入会組合総会において初めて結成され、その組合員資格の取得要件は右総会で制定した組合規約三条に規定され、原告組合員一二六名の資格も右規定に基づいて取得されたというのであるから、仮に、原告主張の硫黄鳥島区という入会団体が存在し、原告組合員の一部に右団体の構成員が含まれているとしても、原告が硫黄鳥島区の現在の存在形態ではあり得ず、右区とは同一性のない別個の団体である。
(三) 入会集団における入会権を有する者の資格については、その部落共同体を構成する各世帯からその代表者一名が入会権を有するというのが慣習的なものである。したがって、仮に、原告主張の入会団体が存在するとしても、入会権者は原始組合員三一名に限られるところ、原告には、その他の本来入会権を有するはずのない者(世帯の代表者でない女性や組合規約三条二項3号により、「特に必要ありとして」加入を認められた者)が構成員の約七五パーセントを占めており、原告は、慣行的に成立している入会権の主体とはいえない。
組合規約三条二項3号の組合員の資格要件は、入会権者という旧来の権利に対し新規加入という形式をとって新たに入会権者と称して共有持分権を取得しようというものであって、慣習的事実に基づいて取得される入会権者の資格要件とはなり得ない。
(四) 入会権存在確認訴訟は、権利者全員が共同してのみ提起しうる固有必要的共同訴訟であるところ、仮に、明治三六年の島会決議を前提にして入会権が存在するとすれば、その権利主体は字鳥島であって、原告組合員の一部に字鳥島の部落民がいたとしても、入会権者全員ではなく、本件訴えは、入会権者の一部の者が提起したもので、当事者適格を欠く。
3 入会権の範囲の特定について
地番で自己が権利を有するとする土地を特定せず、かつ、地番のある土地を特定するような公図もない場合は、自己の権利を主張する者は、自己の権利であると主張する土地の範囲と位置を特定しなければ、訴訟物の特定としては不十分である。
入会権は、土地の地番や境界等と無関係に、実際にその入会地番たる土地を利用している事実関係から生じる権利関係であるから、入会権を主張する者は、その実際に利用していた範囲を明確に特定すべきである。
三 被告らの本案前の主張に対する原告の答弁
1 当事者能力について
原告は、生活共同体としての部落である硫黄鳥島区という入会集団の構成員(世帯主)あるいはその承継者である子孫を原始構成員として結成されたものであり、結合の目的・加入資格・機関・運営手続等を定めた規約を有する団体であるから権利能力を有する。入会権の主体である入会集団が入会組合という名称の下に組織されているときは、これを権利能力なき社団に準ずるものとして当事者能力が認められる。
2 当事者適格について
共有の性質を有する入会権の主体は、硫黄鳥島区であって、かつての字鳥島が昭和一八年久米島の字鳥島と硫黄鳥島区に分離したことにより、硫黄鳥島に所在する土地について、後者が、単独で排他的な共有の性質を有する入会権を、それまで権利主体であった字鳥島から称継取得したものである。
原告の原始組合員である三一名は、昭和三四年七月に鳥島の硫黄山の爆発により島外に移住した、当時の部落を構成していた権利者(世帯主)本人もしくはその子孫である。原告は、本件土地についての権利保全、管理体制の整備のために、その権利主体の総体である右原始組合員が、その権利者たる権限に基づき、組合規約に定めている硫黄鳥島区に地緑・血縁等を有する者を加えて結成されたものである。三一名の世帯主のみが入会権者たる資格を有していたところ、慣行を明文化した右組合規約によって残り一二六名の新規加入が認められたものであるから、原告が入会権の主体たる実在的総合人であり、硫黄鳥島区の現在の存在形態である。これ以外に入会権の主体としての入会権を有するものはいない。よって、原告は、当事者適格を有する。
本件入会権は共有の性質を有する入会権であるから、仮に、一時的に入会権の行使形態がとれなくなっても、その地盤についての所有権が失われることはなく、共有の性質を有する入会権は存続する。
3 入会権の範囲の特定について
原告が共有の性質を有する入会権が存在すると主張する土地の範囲は、甲第六号証の「不毛地官有原野」以外の硫黄鳥島の土地全てである。硫黄鳥島は周辺を海に囲まれた孤島という特別の事情にあり、右官有地及びそれを除く原告所有地の位置、範囲は、別紙物件目録の記載、甲第一一号証及び第一二号証で特定される。
四 請求原因に対する被告らの認否・反論
1 請求原因1の事実はいずれも知らない。
2 請求原因2の事実は認める。
3 請求原因3(一)の事実は知らない。沖縄県においては、明治二九年以降、地方制度が整備されて、明治三一年の「沖縄県間切島規程」によって、間切、島は法人とされ、明治三二年の沖縄県土地整理法も、間切、村等が土地所有権の主体となることを認めている。つまり、明治四一年の沖縄県及び島嶼町村制施行前であっても、原告のいう実在的総合人とは別個の、法人たる行政主体(島・間切等)が存在し、かつその所有財産を有していたことは法律上明らかである。
したがって、沖縄県土地整理法及び島嶼町村制前の官有地以外の土地の所有関係を、全て実在的総合人の所有であるとする原告の主張は失当である。
同(二)の事実は認める。
同(三)(1)の事実は認める。
同(2)の事実中、規定の存在は認め、その余は否認する。
同(3)の事実は否認する。島会決議第四項には、「第二項、第三項ニ依リ鳥島村ノ所有ニ属シタル土地ハ、硫黄採掘ノ為メ出稼スルモノニ貸与スルノ外、他ニ対シ売買譲与又ハ貸与ヲ許サズ。」となっているから、移住後の残留者、出稼ぎ人等の集団が入会地を使用したとしても、入会権を取得することはあり得ない。字鳥島が便宜的に無償で使用を許可していたにすぎない。
同(四)の事実中、島嶼町村制が施行され、鳥島村は字鳥島となったこと、本件係争地が字鳥島の所有となったことは認める。しかし、その字鳥島とは、明治三二年施行の沖縄県土地整理法により、区、区の字、間切、村等の権利主体性が認められた(同法六条)ところ、ここにいう「区、区の字、間切、村」等は、当時、本土において既に町村制が施行されていて、「公有財産の観念が生じており、住民の生活共同体とは別個の「財産区」も認められていたこと等からして、後の島嶼町村制施行時に村に総合される行政主体もしくは行政村としての側面を意味するものである。その余は不知。
4 被告らの主張
(一) 硫黄鳥島の国有地を除く全ての土地は、被告具志川村の所有である。
明治四一年五月沖縄県訓令甲第二二号「部落有財産統一に関する件」を受けて、大正三年、久米島具志川村においても、当時の具志川村長が右訓令に基づく字有財産統一に関する処分の許可の申請をし、その認許に基づき、村内各字の有する字有財産を被告具志川村に統一していった。
本件硫黄鳥島の土地も、右財産統一により、字鳥島から被告具志川村の所有となったものである。それ以来、村有として管理し、税金も課していない。
(二) 硫黄鳥島には、原告主張の国有地三筆の他、三筆、里道が存在する。
(三) 硫黄鳥島は、明治三七年の移住に際し、行政主体としての鳥島村の所有とされたのであって、その住民が入り会うことは全く認められていない。
(四) 硫黄鳥島には、「構成員」の共同利用形態がない。明治三七年の移住以降、鳥島村ないし字鳥島のみが鉱業権を有し、そこの鉱山の抗夫に土地や建物を貸与するなどの使用収益権を有したもので、個々の部落民には何らの権利もない。したがって入会権も存しない。
(五) 明示三七年以前の明治六年の地租改正、山林原野官民区分政策、明治一九年の大林区、小林区制度の設置、明治二二年四月施行の町村制等により、入会地が国有地や公有地に組み込まれていく政策が進められている時代であり、このような時代に、行政単位たる字鳥島に帰属させられた本件係争地について入会権を成立させることは、当時の政策の流れに逆行することであり、あり得ない。
右土地は行政単位たる字鳥島に帰属させたのであり、部落共同体の個々の住民に共同的に使用する入会的権利が認められたわけではない。まして、契約またはこれに類する住民の合意によって入会権が成立することはあり得ない(物権法定主義)。
(六) 明治一八年以降も、被告具志川村が、琉球硫黄株式会社が鉱業権を取得するに際し、鉱区土地の使用許可をしており、字鳥島が行っているのではない。また、このような村の処理、硫黄会社の土地利用に対し、原告の構成員が異議を述べた事実もない。
(七) 原告は、入会地盤を有する硫黄鳥島の土地を離れて約二七年も経過してから入会権を有すると主張し始めたもので、入会権の基礎となる事実状態としての土地の共同利用行為は一切存在しておらず、部落共同体という事実も存在しない。したがって、入会団体としての実体は存在しない。
5 請求原因4の事実中、(一)及び(二)の事実は知らない。
同(三)の事実は知らない。硫黄鳥島区が字鳥島から分裂したという事実はなく、字鳥島の部落民にそのような認識もない。
原告は、入会地の利用をしなくなっても入会権は消滅するわけではないと主張する一方で、字鳥島部落については土地を利用しなくなっことをもって入会権は消滅したとしており、矛盾している。
同(四)の事実につき、被告具志川村は認める。被告国は、硫黄山が再爆発し、住民が移住した事実は知らない。現在常住者のいない島であることは認める。
6 請求原因5の事実は否認する。
原告の入会慣行の主張は、いかなる入会団体がどのような団体的統制に基づいて土地を利用していたのかの点につき、具体性を欠き失当である。原告の主張は、単に山野の利用の事実があったことをもって、これを直ちに入会権と主張するものであって、法理論的に誤りである。
五 抗弁(入会権の消滅ないし放棄)
1 明治三六年から翌三七年にかけての硫黄鳥島からの移住は、もっぱら官の主導で多額の官費の出捐により行われるとともに、一時的な避難ではなく、拝所及び墓所を含む徹底した移住であって、二度と鳥島には戻らないとの決意のもとに行われたものである。
また、前記明治三六年九月の島民大会において、再び永住者を出さないために、硫黄鳥島の土地は、硫黄鉱業のための鉱業出稼人及び鉱業権者以外の使用を許さない旨の決議がされている。
したがって、移住前の旧鳥島部落の住民が、鳥島の土地について入会権的な何らかの権利を有していたとしても、移住に当たって、これを全部放棄したものというべきである。
2 硫黄鳥島は、昭和三四年に全ての住民が離島して、以後現在に至るまで無人島となっており、右の離島によって原告のいう入会権は放棄されたものである。
六 原告の反論及び抗弁に対する認否
1 被告らの主張に対する反論
島嶼町村制施行後の字鳥島は、行政単位ではなく、住民の私法上の団体であり、生活共同体たる実在的総合人であって、本件土地について共有の性質を有する入会権の主体である入会団体であった。
沖縄県訓令甲第二二号発令後、字鳥島有財産である本件土地の所有権が、被告具志川村に移ったとの主張は否認する。
本件土地について、字鳥島から被告具志川村への譲渡、収用あるいは財産区設立などによる被告具志川村の権利が生ずる事実は、全く存在しない。
鳥島村は、実在的総合人であって、その住民が鳥島村所地有を使用・収益することは、入会権の行使である。
2 抗弁に対する認否・反論
抗弁事実は否認する。
本件入会権は、共有の性質を有する入会権であるから、仮に、一時的に入会権の行使形態がとれなくなっても、その地盤についての所有権が失われることはなく、共有の性質を有する入会権は存続する。
第三 争点に対する判断
一 本件係争地の範囲の特定について
本件において、原告は、共有の性質を有する入会権を有することの確認を求めているのであるから、原告を構成する組合員全員が共有(総有)する土地について入会権が成立することを主張するものであり、原告は、硫黄鳥島全体のうち、別紙物件目録二記載の国有地を除いた全ての土地が原告構成員の共有(総有)に属すると主張しているのであるから、本件係争地の範囲は、一応特定されていると解される。
二 当事者能力について
〔証拠略〕によれば、原告は、昭和六二年一〇月一八日に結成され、その結成総会において、それまでの慣習を明文化した組合規約が制定され、組合員一二六名が確定され、結成総会特別決議が採択されたこと、組合規約においては、第二条に組合の目的が、第三条に組合員の資格が、第六条において総会以下の組合の機関が、第七条から第一三条までに総会の運営の方法等が、第一四条に組合の代表者たる組合長等が、第一九条に組合の財政がそれぞれ定められていることが認められ、したがって、代表者の定めがあり、組合の目的、組合員の資格の得喪、組合の機関、財産の管理等団体として主要な点が定められており、個々の組合員から独立した独自の社会的存在と認めることができるものであるから、原告は、いわゆる権利能力なき社団として、民事訴訟法四六条により、当事者能力が認められる。
三 当事者適格について
1 入会権の性質上、入会団体の個々の構成員は、その資格において、入会権の内容のうち、収益権を具体的に行使する権能を有するにすぎず、入会権自体を管理処分する権能は、個々の構成員には与えられていないから、実体法上の入会団体の構成員全員でなければ入会権を処分することはできない。
したがって、その反映として【要旨二】訴訟上も、入会団体の構成員全員または入会団体自体(この場合でも代表者または管理人があり、訴え提起につき構成員全員の承認または委任することを要するものと解すべきである。)でなければ、入会権を処分するような結果を招来するかもしれないような訴訟を追行する権限を有せず、一部の構成員のみでは、右のような訴訟について当事者適格を有しない(したがって、このような訴訟は、いわゆる固有必要的共同訴訟である。)ものと解すべきである。なぜなら、入会団体の構成員の一部にすぎない者に訴訟追行権を認める場合には、その者は他人のため当事者となったものとして、その訴訟の判決の効力は、入会団体自体ないし入会団体の構成員全員に及ぶから、もし敗訴した場合には、入会権自体を処分すると同様の結果を招くからである。
そして、【要旨二】入会権の確認を求める訴えは、原告が敗訴すれば入会権自体を処分する結果を生ずる訴訟であることは明らかであるから、本件共有の性質を有する入会権の確認を求める訴訟は、入会団体の構成員全員の固有必要的共同訴訟であるといわなければならない。
2 ところで、原告は、琉球王朝時代から、現在に至るまで、実在的総合人たる旧鳥島部落、鳥島村、字鳥島、硫黄鳥島区へと、その主体を変えながら連綿と続いていた入会的土地利用の状態が、民法及び島嶼町村制等の法制度の整備の過程で入会権として法的権利に転化し、それを原告が承継したものと主張している。
したがって、入会権の確認を求める本件訴訟において、原告適格の存否を判断するためには、〈1〉昭和三四年の第二次硫黄鳥島噴火によって沖縄本島に移住した住民もしくはその承継人全員が、原告の構成員になっているか、〈2〉字鳥島の住民もしくはその承継人には、本件係争地についての入会権者たる資格はないかという点を明らかにする必要がある(なお、【要旨二】入会権の基礎となる事実状態としての土地の共同利用形態が存在しないにもかかわらず、組合規約を根拠に原告に加入した新たな組合員が、原告組合員のうちの七五パーセントの多数を占めているという点については、本件訴訟の提起について本来の入会権者全員の同意があれば、原告の当事者適格の存否に必ずしも影響を及ぼさないと解される。)。
3 そこで、まず、右〈1〉の点について判断すると、〔証拠略〕によれば、昭和三四年の第二次噴火の際に硫黄鳥島から移住したのは、三一世帯一二八人であり、右各世帯から一名ずつ、当時の移住者もしくはその承継人が、全員原告の構成員となっていることが認められ、この点において、原告の当事者適格に欠けるところはないというべきである。
4 次に〈2〉の点について判断するには、その前提として、琉球王朝時代からの共有の性質を有する入会的土地利用状態の発生及び噴火による二回の移住の事実経過等を考慮に入れた上で、右土地利用形態の変更等につき検討しなければならず、そこで、項を改めて、本件係争地における入会権の発生・変動について検討する。
四 共有の性質を有する入会権の存否について
(硫黄鳥島の土地の権利関係)
各項記載の証拠及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。
1 土地所有権及び地方自治に関する法制度の整備の過程について
(一) 明治五年から明治七年にかけて、明治政府は、財政基盤の確保(地租の確保)を終極の目的とした土地政策を押し進め、その前提として、近代的土地所有権の確立、即ち、一個の土地に対する包括的・絶対的な支配権を有する所有権者の確定を指向した。そのため、地券渡方規則(明治五年二月一五日太政官布告第五〇号、同月二四日大蔵省通達第二五号)、地所名称区別(明治六年三月二五日太政官布告第一一四号)を、更に、明治七年に改定地所名称区別(明治七年一一月七日太政官布告第一二〇号)の各制度を制定し、地券制度の創設及び土地の官民有区分を押し進めた。
これらの土地の官民有区分を押し進める中で、山林原野は、その権利関係の錯雑・効用の多様性・権利意識の特殊性から、別異の取扱いがされた。即ち、明治五年九月の地券渡方規則の増補(明治五年九月四日大蔵省達第一二六号)により、村持の山林等で地価を定め難いものや、数村入会の山野については、公有地としての地券が交付されたが、この公有地は、処置未定の暫定的取扱いの土地であり、前記明治六年の地所名称区別、明治七年の改定地所名称区別で、官有地または民有地として区分されることになったが、その具体的な区別は容易ではなく、その基準として、地所処分仮規則(明治八年七月八日地租改正事務局議定)、地租改正事務局派出官員心得書(明治九年一月二九日地租改正事務局別報第一一号達)を定めた。それによると、
(1) ある村が所持するもの(村持)として、公証となるべき書類に記載があるもの、また、その記載がなくても、樹木等をその村の自由にし、何村持として唱えてきたことを比隣郡村において確証するものは、民有地とする。
(2) 従来、村山、村林と唱え、樹木の植付等の手入れをしてその村の所有地のように進退してきたもので、自然の草木を刈っているだけのものとは判然と異なるものは、その証跡を認めた上で、民有地とする。
(3) 従前、秣永などと称する税的なものを納めてきた土地であっても、全く自然生の草木を伐採してきたにすぎないものは、地盤を所有するものではなく、官有地とする。
とされた(〔証拠略〕)。
ところで、この林野の所有権の帰属に関する基準は、沖縄県に直接適用があるものではなかったが、本件係争地の帰属に関して参考となるべきものである。そして、本件係争地において、明治三六年の第一次移住前の住民らが、植林等、山林の管理・維持を行ってきたと認め得る証拠はないが、硫黄鳥島が絶海の孤島であり、比隣郡村というものがおよそ考えられず、本件係争地を利用し得る者も、その住民だけであったことをも考慮すると、(1)もしくは(2)に該当することは十分考えられる。
(一) 明治三二年四月、沖縄県土地整理法(明治三二年法律第五九号)が施行され、沖縄県においても土地の官民有区分が実施された(島尻郡に属する離島の土地整理は、明治三四年四月に開始され、明治三五年一二月に終了した。)が、右土地整理法一三条には、「間切山野、村山野、浮得地、保管地、馬場、牧場及び間切役場の敷地等は、その区、区の字、間切、村またはその権利を承継した者の所有」と規定されている。そして、硫黄鳥島では土地台帳は調製されなかったが、島有及び私有の不動産が存在するものとされていた(〔証拠略〕)。
他方、沖縄県において、郡区編成の件(明治二九年四月勅令第一三号)が施行され、同勅令第一九号により、沖縄県全域に郡区制が敷かれ、また、沖縄県間切島吏員規程(明治三〇年勅令第五六号)、明治三一年一二月の沖縄県間切島規程(明治三一年一二月勅令第三五二号)により、間切、島は法人となり、官の監督を受けて、法律命令内での公共事務と、法律または慣例によって間切・島に属する事務を処理し、議決機関として間切会・島会を持つことになって、弱いながらも、間切・島を運営する自治権が認められた(〔証拠略〕)。
明治三二年当時、本土では既に町村制(明治二一年)が施行され、公有地の観念も生じており、住民の生活共同体とは別個の「財産区」も認められていたこと、前記沖縄土地整理法第一三条には、現在でいうところの行政財産たる「間切役場の敷地」が並列して列挙されていることから、自然発生的に形成されてきた実在的総合人たる旧鳥島部落が、後の町村制施行時に村に統合されるべき行政主体としての側面も有しており、行政主体として財産を取得し得ると解することができる。したがって、前記沖縄土地整理法における「区」とは、行政村としての側面を意味するものと理解することもできる(〔証拠略〕)。
(三) したがって、明治三六年の島会決議における「久米島なる鳥島村」とは、行政村としての側面を指すとも解される。
2 第一次移住の経緯・顛末について
(一) 硫黄鳥島は、もともと自然状況が厳しく、耕作に向かない土地柄であったから、凶作の年はほとんど例外なく県に救援を求めていたため、県もその煩と負担に耐えず、明治一五年ころ、その役人が旧鳥島部落の住民に久米島等への移住を勧めたが、住民は承諾しなかった(〔証拠略〕)。
(二) 明治三六年四月硫黄山が爆発し、これを視察した県及び内務省の役人及び島尻郡長の勧奨により、全島民が久米島に移住することになり、この移住のため、政府から一万七三五一円余りの費用が支出され、明治三六年一〇月一九日、沖縄県訓令乙第五九号により、移住地の選定方法、移住の事務の管理、右費用の管理、家屋移転費用の給付等についての処理方針が示され、また、同第七号により、鳥島住民移住費出納規定が定められ、右移住費は、島尻郡長によって管理された(〔証拠略〕)。
(三) 島会決議により、鳥島村の公有財産となったのは、島有であった役場敷地、学校敷地、山林、原野、池沼等及び硫黄鉱山の鉱業権並びに私有財産である家屋、宅地、畑地、山林、原野等である(〔証拠略〕)。
(四) 第一次移住においては、県の吏員及び郡長が久米島に出張して、移住地の選定や宅地・耕地の買収、造成を行い、抽選により地割をした(〔証拠略〕)。
(五) 第一次移住は、明治三六年一二月と明治三七年二月の二回に分けて行われ、硫黄鉱山の出稼人九三名を除いて、全島民が移住したが、移住後も、移住地において作物が成熟するまでの間、前記の移住費から食料が支給された(〔証拠略〕)。
(六) 移住に当たり、島尻郡長から、鳥島村民に対して、硫黄鳥島は生活に適さない等の理由から、「同島に永遠に移住を為さんとする者あるも政府は之れを聴さざるをの趣旨に有之就ては苟めにも望郷の念を起し為めに移住の趣旨に背くが如き陋態なく最初の目的に副はんことを努むべし。」との論告をし、また、移住を記念して鳥島と久米島とに建てられた記念碑にも、「両島各碑を建て一は其事の以て忘る可からざると一は其地の以て住す可べからざるを知らしむ」と記されている(〔証拠略〕)。
3 本件係争地を含む硫黄鳥島の所有権の帰属について
以上のように、第一次移住は、専ら政府の主導と多額の援助(移住費や宅耕地の割当)のもとに行われるとともに、墓所や祭祀物の移設も含む永続的かつ徹底した移住であり、本件係争地の所有権を、私有地として、ことさら旧鳥島部落の各住民ないし実在的総合人たる鳥島村に帰属させたとは考え難い(〔証拠略〕)。
また、大正九年発行の鳥島移住始末(〔証拠略〕)によれば、第一次移住前の旧鳥島部落は、県下の各町村と異ならない一個自治の独立団体であったところ、第一次移住後の字鳥島は、被告具志川村を組織する一部落にすぎない存在となり、自治団体としての議事機関も理事長も有していなかったが、県下で唯一、字有財産管理のための区会を有していたため、この字有財産を村有の財産に引き直すためには、区会の賛成決議が必要であったとみなされていたことが認められ、明治四〇年の島嶼町村制により、鳥島村は字鳥島に改組され、町村制一一四条にいうところの財産区になっていたものと解せられる。
ところで、右鳥島移住始末によれば、その字有財産とは、明治一六年までに救助米として給付された代金及び明治一六年に救助米が廃止された際に一括して給付された代金を貯蓄した金銭のみであり、硫黄鳥島の土地については、鳥島移住始末では、全く言及されておらず、また、硫黄鉱業権は、自治団体が営利事業を行うのは穏やかでないということで、鉱業組合が設置されて、その管理運営に当たり、その利益は、字鳥島の部落民の共有財産となったことが認められる。
以上述べてきた事情に照らせば、島嶼町村制の施行前の、実在的総合人たる側面と行政主体たる側面とが未分化の状態であった旧鳥島部落が有していた本件係争地の所有権は、島嶼町村制の施行により、行政村たる字鳥島に帰属したものと解され、共有の性質を有する入会権の確認を求める原告の主張は認められないといわなければならない。
五 本件入会地の利用状態について
なお、共有の性質を有するか否かにかかわらず、本件係争地に入会権が存在したか否かについて検討する。
1 琉球王府時代から第一次移住時まで
〔証拠略〕によれば、硫黄鳥島は、もともと地租が免除されていた土地であり、上納の義務があったものは鉱山から採取する硫黄であり、これを中国への朝貢品として、毎年一定量琉球王府に納めていたこと、土地が狭いために十分な作物が取れず、明治一六年まで毎年救助米を下賜されていたこと、その他、食物については、鳥賊漁を中心とした雑漁で糊口をしのいでいたことが認められる。
ところで、入会権の存在が認められるためには、明確な入会慣行と入会団体的統制が必要であるところ、前記認定事実に照らしても、右入会慣行と入会団体的統制のいずれも認めることができず、これを認めるに足りる証拠もない。
なお、原告は、硫黄の採掘をもって入会権の行使の一態様であると主張するが、前記のとおり、硫黄採掘事業は、対中国貿易のために、琉球王府の直轄管理下のもとで行われたものと解せられ、実際に採掘に当たっていたのは硫黄鳥島の住民であったにせよ、その団体的統制に服していたものとは認められない。また、廃藩置県後に硫黄の上納の義務が廃止された後は、鉱業権は国家独占主義のもと、国の監督下に置かれていたこと、硫黄採掘については、その収入のうち、島民の共有となる部分と個人の労働賃金になる部分があり、前者は事業契約者の都合で減額され得ることがあったという事実を認めることができるにすぎず、それ以上にどのような入会慣行があり統制があったかは全く明らかではなく、硫黄採掘の事実をもって、入会権の存在を認定することはできない。
2 第一次移住後から第二次移住前まで
〔証拠略〕によれば、第一次移住後も、硫黄採掘のため、硫黄鳥島に残留した島民及び復帰者がいたこと、彼らは、採掘・販売を委託した業者の下で硫黄鉱山での労働に従事し、また、耕作をするなどして生計を立て、子供たちは字鳥島の学校へ就学したこと、昭和一〇年には、硫黄鳥島の住民たちは硫黄鳥島区の名称を使用し、区長をおいて、島内の自治に当たり、硫黄鳥島区民は字鳥島の字有地内の字有地の処分については相談も、利益の配分にもあずからなかったこと、昭和一一年、字鳥島は、硫黄鳥島の硫黄採掘権を京都所在の東洋硫黄鉱業株式会社に金三万円で売り渡し、その代金は、一部は右字鳥島の経営にかかる鳥島信用組合の赤字補填に充てられ、大部分は明治三七年の鳥島村移住前に硫黄鳥島で生まれ、右鳥島村に移住した者に分配されたこと(ただし、硫黄鳥島の在住者には分配されなかった。)、昭和一八年、東洋硫黄鉱業が小学校を創立したこと、この間、硫黄鳥島区の住民は、同島の山林から燃料用の雑木を採取しており、その際、資源枯渇を防止するために、根を取ることは禁止されていたこと、住民らは、個々の土地を畑として耕作していたのみで、一緒に使う土地はなかったことの各事実を認めることができる。
しかし、右認定事実をもってしても、硫黄鳥島の土地について、明確な入会慣行や入会団体的統制の存在を認めることはできない。また、硫黄採掘権の存在のみをもって、入会権の存在を認めることができないのは前述のとおりであるが、この時期においては、硫黄採掘権の管理そのものを、硫黄鳥島の住民ではなく、久米島の字鳥島の部落民が行っていたことを認めることができ、この点からしても、入会権の存在を認めることはできない。
3 第二次移住後から現在に至る間について
〔証拠略〕によれば、原告の組合員等は、昭和五二年ころから船をチャーターして、年に一回、二泊三日位の日程で硫黄鳥島に行き、墓参や島内散策などをしていることを認めることができるが、右の事実をもって入会権の存在を認めることはできない。
六 以上述べてきたことから明らかなように、本件係争地には、共有の性質を有すると否とを問わず、入会権が存在することを認めることはできず、原告の請求は理由がない。よって、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 木村元昭 裁判官 生島恭子 高瀬順久)